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2013年1月

2013年1月 9日 (水)

“観音様のお告げ”と男体山で地権者に無断で穴を掘った自称運命鑑定師が摘発される

 我が国の“埋蔵金”の代名詞ともいえる「徳川埋蔵金」。親子3代にわたって探しつづける水野さん一族の話や、TV番組の一環として重機を導入して大々的に地面を掘り返した糸井重里氏のプロジェクトなどもあり、まさに知らぬ人のいない話題だろう。

 ただ、そんな影響もあって、どうしても「徳川埋蔵金」といえば赤城山が注目されてしまうが、実は「徳川埋蔵金」のターゲットは赤城山だけじゃない。東照宮のある日光山から男体山、榛名山、妙義山と北関東一円いたる所に“候補地”が広がっている。「物証の多すぎる赤城山は“おとり”で、本来の埋蔵地から目をそらさせるためにわざわざ偽装した」というわけだ。

 そんな、「徳川埋蔵金」の“候補地”のひとつ、男体山でとんでもない事件が起きた。昨年の夏から暮れにかけて男体山の山麓で、他人の所有する山林で勝手に埋蔵金探索のための穴を掘っていたグループが12月21日、栃木県警日光署に摘発された。

 そのグループとは、自称“運命鑑定師”H容疑者(82歳)を中心とする男女3名。実はこのグループの首謀者、H容疑者は女性で、かつて“霊示気学二穣会事件”でも有名となった二穣師女、その人だった。運命鑑定の一環として“念金浄化”(紙幣を燻蒸するだけの行為を“念金浄化”と称していた)を行うために、会員から集めた多額の紙幣を元夫に持ち逃げされたりして、返金できなくなり詐欺罪に問われ、有罪となった。そんな過去を持つH容疑者が、今度は他人の土地を無断で勝手に掘り返していて捕まったというのだ。

 各新聞、WEBニュースなどから事件をまとめると、同容疑者を含めた男女3名は、栃木県日光市の宗教法人、日光二荒山(ふたらさん)神社が所有する男体山山麓の山林で、8月の上旬から12月中旬まで、同社に無断で穴を掘っていたという。同社によれば「夏頃から数回にわたって穴を掘らせて欲しいと頼まれたことはあったが断った」という。この時の人物が容疑者のグループと関係があるかどうかは今のところ不明。

 勝手に掘っていた理由というのが、「ここにお宝が埋まっているという観音様のお告げがあった」から、と警察の事情聴取で供述しているという。

 12月上旬に散歩中の地元住民から110番通報があり、駆けつけた署員が現場で取り押さえたという。容疑は「器物損壊罪」。他人の持ち物を勝手に傷つけること、が「器物損壊罪」の要件だが、他人の土地を勝手に掘ったり、他人の飼い犬の毛を刈ったりしても成立する犯罪だ。

 ちなみに掘られた穴というのが、広さはわずか4.62メートル平方だが、深さが何と11.3メートルもあったそうだ。短期間に人力で掘れるのはせいぜい深さ2~3メートル、穴掘り専用の油圧ショベル(バックホーとかドラグショベル)を使ったとしても、アームの長さから通常は7~8メートル程度。10メートルを超える穴となれば、深い穴を掘るための専用の油圧ショベル(テレスコアーム掘削機など)を導入しなければとても掘れないはず。また掘った後も土留めをしなければ崩れてしまう可能性があり危険だ。11.3メートルとはそんな深さなのだ。ちなみに器物損壊の被害額としては、現状に復すための修繕費が約58万円とか。

“占い”や“お告げ”で埋蔵金のありかが分かれば世の中そんな楽なことはない。今頃、日本中の埋蔵金という埋蔵金は全て掘り出されている。蛇足ながら最後に付け加えておくと「宝が埋まっているという伝説はありません」と二荒神社さんのコメント。とんだ騒動でした。

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2013年1月 7日 (月)

戊辰戦争中に座礁沈没した米国船ハーマン号を勝浦沖で発見

 2012年も押し詰まった12月28日、読売新聞が戊辰戦争中に沈没した傭船“ハーマン号”の遺物引き上げを伝えていた。
 沈没船の引き上げとなると財宝がらみで埋蔵金と一緒くたにされて語られるケースが多いが、陸上の埋蔵金と違って沈没船は“史実”に裏付けされた身近な出来事。当事者も判明していることがほとんどで、現状では遺失物の延長として考えられている。当WEBサイトでも情報の一端として沈没船の話題も載せてはいるが、本来はテリトリー外なので念のため。
 ま、それはともかくこの沈没船の探索、引き上げという作業は、海外ではすでに商業ベースで事業化されて行われるようになってきている。沈没海域の絞り込みと、探索にかかる費用対効果がほとんど全ての決め手で、実際にカリブ海などでは、幾多のチームが沈船を発見、多くの財宝を引き上げてきている。億単位で資金を投入し、数十億、数百億の利益を得るというケースも。
 またそういった商業主義に対抗するかのように、ユネスコは水中文化財として保護に乗り出しており“水中文化遺産保護条約”を作り「文化的・歴史的または考古学的性質を有する人間の存在のすべての痕跡で、その一部または全部が定期的または断続的に、少なくとも100年の間水中にあった考古学的・自然的背景を有する文化的遺物」(第1条1項)である水中文化財は「商業目的に利用されてはならないこと」(第2条7項)として各国自らの手による保護を強く求めている。
 ひるがえって日本では、となるとやっと沈没船の存在そのものに焦点が当てられ始めたというところ。「水中考古学」として学術的にも一般に認知されるようになってきたのはつい最近のことだ。ただ、海洋に囲まれた日本のこと“史実”として残る沈没船の数は多く、今後もさらに目にする機会は多くなっていくはず。
 話がそれたが、読売新聞が伝えた沈船のニュースとは、以下の通り。

『戊辰戦争中に沈没「ハーマン号」

船体構造、装備解明に期待

 戊辰戦争中、新政府軍側の熊本藩兵らとともに、千葉・房総半島沖に沈んだ米国製蒸気外輪船「ハーマン号」(全長71㍍、1734総㌧)の船休が海底で見つかり、調査が進んでいる。「黒船」と同じ蒸気外輪船の詳しい構造のほか、当時の装備や航海機器など、新たな発見に期待がかかる。
 熊本藩は、当時日本に往来した外国船でも最大級の木造輸送船のハーマン号を横浜で借り上げ、藩兵350人、米国人乗組員80人を乗せて、1869年2月に北海道に向けて出航させた。函館・五稜郭に立てこもった榎本武揚の旧幕府軍との交戦に援軍を送るためだ。だが、悪天候により千葉県勝浦市沖で沈没し、藩兵約200人、米国人22人が犠牲になった。
 米国で水中考古学を学んでいた井上たかひこさん(69)が1980年代、この事故を知り、91年に帰国後、調査を開始。地元漁協の協力を得て、98年に勝浦市沖合約800㍍にある水深10㍍前後の岩礁で、海藻の森の中にある沈没船を発見した。

資金難や荒い潮流 調査難航

 翌年、日本水中考古学調査会を設立し、会長に就任。これまでの潜水調査で、船体は大半が、長さ23・5㍍、幅5㍍の範囲で砂利に埋もれていると分かった。一帯からは、長さ約20㌢の船くぎや真ちゅうの板材、石炭など船に関する遺物のほか、熊本藩兵の持ち物と思われる土瓶や茶わん、米国人が船で使ったとみられる19世紀半ばの洋食器やワインボトルも見つかった。
 同会は、遺物の年代や文献から、この船体をハーマン号と判断。船体に機関部のような、さびた金属塊があることから、見えている部分は中央部の船底らしい。熊本藩の文献には、ハーマン号は銀1万2000~1万3000両の軍資金を積んでいたとある。未調査の土砂の下からは、銃や弾薬など装備品のほか、日記など個人的な所有物が見つかることも期待される。
 だが、水中遺跡の調査には、潜水の費用や船のチャーター、人件費などで膨大な費用がかかる。さらに、この海域は潮流が荒いため調査が順調に進まず、費用も増大しがち。一時は、米国の大学が調査を行う予定だったが、2008年のリーマンショック以降の資金難で頓挫したという。
 今年8月に行った潜水調査では、東日本大震災の影響がほぼなかったことを確認した。今後、現場の見取り図を作成し、残る遺物を探す方針だ。井上さんは「市に遺跡として認めてもらって法的な保護の網を掛け、将来の本格的な発掘調査に備えたい」としている。
(文化部 辻本芳孝)』

--以上、読売新聞 2012年12月28日付--

 当時の賃借関連の資料が調べられたわけではないので一般論でしかないが、ハーマン号の所有者は米国の海運会社であり、船体が引き上げられれば所有権の問題が発生する。また当時でも、海外ではすでに保険制度が利用されていたはずなので、その場合、保険金が支払われていれば、所有権は保険会社に移っている。
 また、積載していたという軍資金に関しても、海運会社から肥後細川藩(熊本藩)に沈没被害に対する賠償金等が支払われていれば、軍資金も保険会社に権利が移っているはずで、そこら辺の利権問題を整理してから事に当たっているのだろうか。そうでないと引き上げに成功したからといって文化財として保護することも難しくなってしまう。余計な心配かもしれなが、相手が権利訴訟国家のアメリカだけに、そこら辺をクリアーにしてから事に当たらないと後々面倒なことに。
 このハーマン号に関しては、心温まる話題もある。地元といえる千葉県勝浦市では、毎年地元の有志が津慶寺というお寺で犠牲者の慰霊祭を行ってきたのだが、昨年の2月13日には、初めて22人の米国人犠牲者のための慰霊祭を行ったという。
 肥後細川藩の犠牲&行方不明者は判明しているが、米国人乗組員の犠牲者は、日本側では名前も分かっておらず「存在自体が完全に忘れられていた」状態たったのだという。異国の地で亡くなり、名も知られずに眠っていた22人の米国人乗組員、今後は肥後藩士と同様懇ろに弔らわれることになるだろう。ただ名前が判明しないのは今も変わらずだそうで、慰霊のため、また日米友好のためにもきちんと調査、記録として残しておきたい。
 千葉県勝浦市の遭難現場を望む丘には、1878年(明治11年)に慰霊碑が立てられ、現在は「官軍塚」として市の歴史文化財になっているという。
 ちなみに最後に、肥後細川藩拾遺(http://www.shinshindoh.com/hermann.html)という細川家の歴史と業績を紹介するサイトから、ハーマン号事件に関する記録の一部を紹介させてもらった。


 正月三日津軽應援の我藩兵を搭載せる汽船上総海にて座礁し兵士溺没する者多し

【慶應三年自筆牒控、由明治二年至三年一新録自筆状】

 以別紙相達申候津軽表ニ援兵与して被指越候御人数亞船御借請去ル二日乗組品川出帆之處同三日之夜上総國夷隅郡河津村沖ニ而暗■(石偏に章)ニ乗上り終ニ及破船餘計之御人数死亡ニ至候ニ付而ハ不取敢昨夕御武器方御役人是茂右難船ニ逢候者故現實之模様言上之■■早打ニ而被指立候通ニ御座候處今晝吉田少右衛門儀早駆ニ而彼表■(ヨリ)着御人數之内死亡存生之境大概相分候由ニ而夫々書付相達候間便覧ニ認直セ幸ヒ村上彈助儀下坂被仰付置候右之一條を持セ京地迄被指立候條着之上巨細之儀ハ御聞取被下候様船将不案内与相聞申候間於此方様猶更御不運与可申右之通餘計之御人數死亡いたし候而己■ら■多分之御銀茂沈没仕候様成行彼是重疊奉恐入候事共ニ奉存候右ニ付而ハ直様堀田源之允並御役所根取等方江差越萬般都合能取計有之候様申談仕候事ニ御座候猶相分次第追々可得貴處先前條之趣相達申候以上
正月八日           林 九八郎

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