« 2011年7月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年8月

2011年8月30日 (火)

「多田銀山で坑道調査」豊臣秀吉の埋めた4億5千万両のゆくへは?

 先月「石見銀山で坑道を再調査」というニュースをお知らせしたばかりだが、埋蔵金関連では本筋と言える「多田銀山で坑道調査」のニュースが入ってきた。

 多田銀山と言えば、一般に「国内三大埋蔵金」と呼ばれるもののひとつ、豊臣秀吉の埋蔵金の舞台として有名だ。豊臣秀吉が亡くなる直前の慶長3年、自分の亡き後の豊臣家の安泰を図るため、多田銀山に4億5千万両の金銀を坑道のいずこへか埋めたというもの。

 その多田銀山でロボット調査が開始されたという。

『秀吉の埋蔵金、伝説では4億両超 多田銀銅山に探査ロボ

 豊臣秀吉が開発を進め、天下統一を経済的に支えたとされる「多田銀銅山」。大阪府と兵庫県にまたがって残る坑道の大半は落盤の危険があり、内部の調査はほとんど手つかずのままだった。兵庫県教委は23日から、探査ロボットを坑道の中に入れ、秀吉の埋蔵金伝説が残る「宝の山」の調査に乗り出す。

 県教委によると、多田銀銅山は大阪府の池田市、箕面市、能勢町、豊能町と、兵庫県の川西市、宝塚市、猪名川町の計7市町を中心とした鉱脈の総称。2千の坑道があるとされる。

 秀吉が天正年間に直轄鉱山として開発。江戸時代は「銀山三千軒(ぎんざんさんぜんけん)」と呼ばれ繁栄したが、次第に衰退し、日本鉱業多田鉱業所だった1973年に閉山した。

 今回の調査は、新名神高速道路の橋脚建設に伴う調査で見つかった猪名川町の坑道が対象。坑道内の形の特徴を把握して年代を特定し、多田銀銅山の実態を調べるのが狙いだ。秀吉ゆかりの坑道「瓢箪間歩(ひょうたんまぶ)」や「台所間歩」の名が残る銀山地区の近くに位置する。

 坑道は斜め上に向かう横穴。7月の事前調査では、入り口の高さ0.90メートル、幅0.6メートル、長さは約6メートルと確認した。奧に行くほど坑道の高さは低くなり、突き当たりの天井には鉱脈につながっている可能性のある立穴(たてあな)も見つかった。

 23日からの調査で使うのは、松江工業高専の久間英樹教授が開発した長さ約60センチの探査ロボット。傾斜角などを測れる小型センサーとカメラがあり、坑道入り口から遠隔操作できる。

 今回の調査に、埋蔵金伝説に関心を寄せる講談師の旭堂南海さんは「財政難にあえぐ自治体が、とうとう埋蔵金のロマンに手をつけるのか。兵庫県が大金持ちになれる瞬間が近づいたかも」と興奮気味に語る。

 一方、県教委は伝説からは距離を置く。調査を担当する県立考古博物館(播磨町)の深井明比古課長は「多田銀銅山は長い歴史を持つ産業遺産。ロボットの力を借り、実態解明につなげたい」。今後も調査を続ける。          (日比野容子)

     ◇

 〈豊臣秀吉の埋蔵金伝説〉 息子・秀頼の行く末を案じた秀吉が1598(慶長3)年6月、大坂城に残っていた朝鮮出兵の軍用金4億5千万両を多田銀銅山の21カ所の坑道に埋めた、と埋蔵を命じられた家臣の遺書などに記されていたとされる。現在なら兆円単位の価値だとする試算や、財力を誇張しただけとの見方もマニアの間にはあり、群馬県の徳川埋蔵金、茨城県の結城家埋蔵金と並んで「日本の三大埋蔵金」と称される。 』

--以上、asahi.com(朝日新聞社)webサイト 2011年8月22日より--

 豊臣秀吉が亡くなったのは、慶長3年の8月。そのわずか2か月前、病に伏していた秀吉は、突然多田銀山の閉鎖を命じて多田銀山から一切の人を遠ざけた。“銀山ばらい”といわれた出来事だ。そして金山奉行の幡野三郎光照に命じて、無人となった銀山で死刑となる罪人を使い軍資金4億5千万両を坑道の10数ヵ所に分散して埋蔵をさせたという。

 これらの埋蔵金は、政権を一次預けたはずの徳川家康から、成人した秀頼に政権委譲が成された時に掘り出して使われる予定だった。埋蔵の事実が知られることとなったのは、「清水心竜之巻」「幡野三郎光照遺書」などの秘文書と絵図の存在だ。

 あくまで一時的な埋蔵で、時機到来ならば即役立てられるように、埋蔵場所や発掘の方法等がこれらの秘文書に詳細に記されていたという。

 とくに最大の埋蔵ヵ所は盗掘されないように水没されており、そのための水抜きの方法なども記されていたのだという。この文書は“その時”が来るまで幡野家に秘匿されていたといわれている。だたもう一組、淀の方にも同じものが預けられていたというので、2通存在していたことになる。

 これらの秘文書が、めぐりめぐって外部に知られることとなった。ただ秘文書が手に入ったからといって、すぐに埋蔵場所が分かるわけではなく、埋蔵の手引きとも言える八門遁甲法により解読をしなければまったく役に立たないように記されているという。

 また一説によれば、埋蔵後、そのうちの二箇所はすでに掘り出されたという。初めて手を付けたのは、関ケ原の戦いの軍費として、もう一回は、大阪城落城後に、真田幸村の家臣、穴山小助が掘り出し、豊臣と繋がりのある薩摩島津家に届けられたという。こちらは秀頼の生存九州落ち延び説に繋がるのだが、そればまた別の機会に。

 ちなみに多田銀山自体の開発は秀吉の時代よりもさらに古く、源満仲より発見されたという説がある。正式の記録として残るもっとも古いものは鎌倉時代で、能勢採銅所が設けられた1037年というのがある。その後も採掘は続けられていたが、秀吉の時代になって、唐から日本に渡ってきた帰化人から技術を習得。先進の採鉱法や精錬法を利用して増産させている。

 ただ、あくまで多田銀山はその名の通り銅や銀鉱山であり、金を産出したわけではなかった。また、銀山としても同じ兵庫県の生野銀山ほどには産出量の多い銀山ではなかったので埋蔵には都合がよかったのだろう。

 豊臣氏滅亡後は、徳川幕府によって運営が再開され、採掘が行われているので、その時まで坑道内に埋蔵されたままだとしたら発見された可能性は高いといえる。そして万が一発見されたとしても公表されることなく、そのまま徳川幕府の懐に入っているのではないだろうか。ちなみに半世紀後の寛文年間には徳川幕府の天領となって、年間で銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約84トン)と秀吉の時代の数十倍もの産出量を記録しているので、坑道内のあらゆるところで探鉱がおこなわれたはず。いかに八門遁甲で隠されたとはいえ、発見されずに現在まで残っていると考えるのは難しいと思うのだが…。

 今回のニュースによれば、自走型のロボットによる探査のようで、あくまで坑道内の状態調査が主な目的。埋蔵金の探査とはまったく趣旨が違うので、万が一にも隠された埋蔵金を発見することはないはず。地中レーダー等の探査機器を搭載していなければ埋蔵金ばかりか新たな鉱床を発見するのも難しいだろう。

 ただ、現在の坑道内の正確な状態を記録してくれるのはありがたいことで、詳細なデータが公開されることを期待したい。

|

« 2011年7月 | トップページ | 2012年1月 »