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2006年3月

2006年3月23日 (木)

毛利家ゆかりの“黄金茶碗”が発見されたという。

 3月21日の朝日放送系のTV番組“スーパーモーニング”の中で紹介されていたというからご存じの方も多いだろう。“発見”に至った経緯を一番詳しく紹介していたと思われる朝日新聞の記事で見てみると、
--以下2006年3月21日朝日新聞朝刊社会面--
『毛利家ゆかりの「黄金茶碗」発見
 長州藩主の毛利家ゆかりの黄金茶碗が、奈良市水門町の寧楽美術館に保管されていることがわかった。幕末から明治維新の動乱期に多額の借金を抱えた毛利家が、その返済軽減に協力してくれた大阪の豪商・広岡久右衛門に褒美として贈ったものという。<br />
 同館は23日~26日に特別展示する。
 茶碗は直径12.6センチ、高さ7.5センチ、重さ役300グラムで、木の芯に純金が貼り付けてある。同館設立者の故中村準策氏が昭和初期に広岡家から購入。これまで公開せずに保管してきた。
 同館は今年2月、大阪市史料調査会の野高宏之氏らに調査を依頼。茶碗の箱のふたなどに「明治元(1868)年11月、借金の交渉にあたって毛利公が広岡久右衛門に贈るように言われた」と記され、毛利家に伝わる「長州献上拝領帳」にも同様の記録があった。
 野高氏によると、長州藩は当時、幕府軍との戦いで財政が悪化し、藩主の毛利敬親が借金をしていた商人らに利子軽減や返済期日延期を求めた。毛利家と懇意だった広岡久右衛門がその交渉役を引き受けたという』
 まあ、この朝日新聞の記事をはじめ多くの報道の内容から判明するのは“発見”と言うよりは“初公開”というべき内容のニュースだったということ。ただ、こういったある意味“埋もれた”文化財なりお宝が広く一般に公開されるのは嬉しいことで、秘蔵されてごくごく少数の人間しか実物を見ることが出来なくなったり、良くあるケースでは“学者”の方々の“専有物”的な扱いになってしまわなかった事を素直に喜びたいと思う。今後も定期的に公開していただきたい。
 ちなみに毛利家の埋蔵金の伝承というのは意外に少ない。逆に毛利と対立した尼子氏の家臣、山中鹿介が永禄年間に尼子再興をめざして立ち上がったが、毛利との闘いで無念にも敗走、その時に大根山山中に軍資金を埋蔵したという能義郡広瀬町の“白南天の元の埋蔵金”や、これまた毛利勢に攻められた銀山城の武田信実が落城に際して埋めたという広島市安佐南区の“金の茶釜伝説”などなど毛利に反旗を翻した側の埋蔵金伝説のみが多く残っている。ちなみにこちらも目印は“白南天”とか。
 しっかり者のイメージの強い毛利家には埋蔵金などという“夢物語”は似合わないと言うことか。はたまた、戦国時代から幕末まで生き残った勝ち組には“伝説”として後世に残るような逸話が出来る機会がなかったのか…。
 それはともかく、黄金の茶碗自体は別に珍しいものではなく、戦国時代以降多くの名品が知られている。特に有名なのはまさに黄金のイメージにピッタリの人物、豊臣秀吉が残した黄金の茶碗「金天目」だろう。京都伏見の醍醐寺に伝来する、太閤が日々愛でたという黄金茶碗で、直径12.6センチ、高さ5.8センチ、今回の毛利家の黄金茶碗同様木の芯に金が貼ってある。
 黄金の瓢箪の馬印や黄金の茶室、はたまた黄金の瓦など太閤の黄金好きはつとに有名だが、権力者ならば誰でも黄金の輝きを日々身近に眺めていたい、というのは変わらぬ事のようだ。

※展示された黄金茶碗の箱書きと添え書き文書
<箱書き>
   『明治元年戊辰十一月
    長州様御政府方
    山形弥八殿・白根多助殿
    御上坂。御銀談ニ付被為
    下置候旨、御達
    正饒  拝領之    』
<添え書き>
   『一、黄金御茶碗一
    広岡久右衛門
        右
    御意、数年来御用向
    被仰掛候度々尖ニ
    遂、其節
    御太慶被思召候。猶又
    此度難題之儀被仰
    聞候付而ハ、別而出精
    御為能様可申談候。
    依之格別之筋を以
    一御書(前書カ)通拝領被
    仰付候事。        』

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