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2002年1月

2002年1月31日 (木)

興福寺、中金堂の復元現場から金の薄板や水晶玉!

 不景気風が吹きまくっておりますが、皆様研究の進捗状況はいかがでしょうか? なかなか時間と予算がとれなくて……。いずこも同じなんとやら、なのではないでしょうか。
 それはともかく、ちょっと気になったニュースを。それは奈良の興福寺、中金堂の復元現場から金の薄板や水晶玉などの“鎮壇具”が発見されたというものです。
 埋蔵金からはちょっと外れますが、埋蔵文化財ということで取り上げてみました。2002年1月31日付けの朝日新聞朝刊に載ったニュースで概要を紹介すると、
『金板や水晶玉 宝物300点出土  奈良の興福寺
 奈良・興福寺の中金堂(ルビ:ちゅうこんどう)を創建当時の姿に復元するため、発掘調査していた奈良文化財研究所と興福寺は30日、仏像を安置した須弥壇(ルビ:しゅみだん)の下から金や水晶玉などの宝物約300点が出土したと発表した。
 奈良時代初め(8世紀前半)に興福寺を創建した際、その土地の神がたたりをなさないよう鎮めるために埋めた「鎮壇具(ちんだんぐ)」の一部と見られる。』(以上朝日新聞紙面より)

 興福寺といえば、飛鳥時代の「厩坂寺」、さらにさかのぼって天智朝の山背国「山階寺」が起源という法相宗の大本山としておなじみだろう。『山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。』(興福寺Webサイトより)

 で、この興福寺にある「中金堂」の復元現場から金の薄板や水晶玉などの埋宝が出現したというわけだ。「中金堂」自体の由来も興福寺Webサイトによると『和銅3年(710)創建の中金堂は、享保2年(1717)に焼失後、文政2年(1819)に仮堂として再建され、赤堂として親しまれてきました。』
 その「中金堂」の復元工事は『仮堂再建以来150年以上経過し、使用材がマツ材であることや、瓦が割れて雨漏りし老朽化がすすみましたので、昭和50年(1975)に講堂跡に仮金堂を建立し、本尊の釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像、四天王像を移座申し上げて参りました。現中金堂内陣 平成3年(1991)から各界の学識経験者や文化庁・奈良県・奈良市のご指導を仰ぎながら、中金堂院を中心とした興福寺境内の整備に関して、種々検討してきました。その結果、平成10年(1998)から中門・回廊跡の発掘調査を開始し、12年から現中金堂解体、基壇の発掘調査を行い、その結果に基づいて創建当初の中金堂設計を行い、来る平成22年(2010)の興福寺創建1300年という記念すべき年の再建に向けて、邁進することになりました。』とのこと。
(興福寺Webサイト:http://www.kohfukuji.com/kohfukuji/index.html

 このところ埋蔵金関係のニュースが無くて寂しい限り。ま、それほどちょくちょくある、ってもんでもありませんが……2002年もよろしくお願いいたします。

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