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1997年10月

1997年10月26日 (日)

『偽金貨10万枚つぶし返還、 大量流通事件、未解決で幕』

 ちょっと気になる記事が’97年10月24日付けの朝日新聞朝刊に載っていたので紹介しておこう。それは…
『昭和天皇の在位六十年を記念して発行された十万円金貨の偽造硬貨が大量に流通した事件で、証拠品として警視庁に押収されていた偽硬貨が近く元の所有者の金融機関などに返還される。その数約十万八千枚。本物とほほ同じ量の純金製で、重さにすると約二トン、三十億円相当になるという。再び市中に流れることがないように表面を押しつぶして編み目状の文様をプレスした。警視庁捜査三課は七年間にわたって通貨偽造容疑で捜査してきたが、事件の真相はいまだ分からない。過去最大級の通貨偽造事件は未解決のまま、捜査が終結する。
 返還される偽造金貨は二十三日夜、大阪市の大蔵省造幣局から捜査三課に引き渡された。
 記念金貨は九九・九九%の純金製。直径約三センチ重さ約二十グラムで、表にハト、裏に菊の紋章が施されている。大蔵省が一九八六年から計千百万枚を発行し、一般通貨としても流通した。
 しかし、使われた金が約四万円分と少なく、額面が原料費を六万円分上回っていたことから、発行当初から偽造される危険性が指摘されていた。
 偽造金貨の存在が発覚したのは九○年一月。東京都中央区のコイン業者が都市銀行に持ち込んた一千枚の金貨がすべて偽造と分かり、大騒ぎとなった。偽物は本物と比べて表面の文様が荒い、光沢が鈍い、などの違いがあったが、金の分量、純度は本物とほほ同じで、詳細に鑑定しないと見分けがつかないほど精巧にできていた。
 捜査三課は背後に大規模な偽造グループが存在するとみて、流通ルートの捜査を始めた。
 その結果、偽造金貨がスイスを中心に営業活動を行っているイタリア人のコイン業者からスイスとイギリスの業者を通じて国内の三業者に流れ、さらにその業者たちから都内の都市銀行など金融機関に持ち込まれていたことが判明した。
 しかし、その後の捜査は難航。捜査三課などは捜査員を欧州の各国に派遺したが、卸元のイタリア人のコイン業者は偽造への関与を否定。中東で製造されたという情報もあったが、結局、裏付けが取れなかった。
 今回返還される約十万八千枚の偽造金貨は、偽物と知らずに所有していた日本銀行や都市銀行などの金融機関、コイン業者から、警視庁が証拠品として押収したもの。扱いに苦慮していたが、結局、元の所有者に返還することを決め、大蔵省造幣局に委託して九月末から表面を押しつぶす作業をしていた。』
…というもの。もともと額面よりもあまりに原材料費が少ない金貨を発行したのが間違いの原因。記事の中にもあるように、当然このような偽造行為を誘発するのは目に見えていたといえる事件だったのだ。
 江戸時代の改鋳小判じゃあるまいし、コインのコレクションブームだけを当て込んだ“記念硬貨”にはゆめゆめご注意を。発行枚数からいっても“記念価値”が6万円を超えることなどあり得ないのだから。まあ、硬貨として使えば額面どおり10万円は10万円だから、“お宝”として持っているのも一興!?

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1997年10月16日 (木)

『秀吉の“もう一つ”茶室の遺構が発見される』

“秀吉の茶室”と言えば例の黄金の茶室があまりに有名だが、あれはあくまで、秀吉が財力、権力を誇示するための表向きの看板で、わびさびの千利休の第一の弟子といえる秀吉にとって、本当の意味での茶道の神髄をちゃんと解していた、と見る向きも多いのでは。その裏付けともいえる“もう一つの”茶室の方の遺構が佐賀県は名護屋城跡から発見されたというニュースが入っている。
 佐賀県教委が十六日発表した内容によれば、名護屋城の一郭に独立して建てられた四畳半程度の「茶室建築史や茶道史上、極めて重要な草庵(そうあん)茶室と見られる柱の跡などがこのほど確認された」という。もちろんこの発見は初めてのことで、またこの形式の茶室の遺構が発見されたこと自体も初めてなのだそうだ。
 佐賀県鎮西町名護屋にある名護屋城といえば、秀吉が朝鮮出兵の拠点として築かせた問題の城で、一五九一から九二年まで、それはまさに出兵を強要される各地の大名にとっては忌み嫌うべき対象でもあったといえる。今回発見された茶室はもともと屏風(びようぶ)絵や文献に描かれていたもので、存在自体は推定されていたが、特定するに足りる物的証拠が探られていた。
“黄金の茶室”も惹かれるが、文化財的には同等の価値がある“普通の茶室”の遺構の発見と言えそう。
(1997/10/16佐賀県教育委員会発表から)

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