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1997年9月14日 (日)

『遺構の発掘情報を二つ』

 ちょっとWEBの主旨から外れるかも知れないけど気になるニュースを二つ。
 一つ目は、
『安土城の秀吉邸 礎石配置から模型で復元(1997/09/11付け朝日新聞)
「滋賀県安土城郭調査研究所(同県蒲生郡安土町)は、豊臣秀吉が織田信長の築いた安土城内に構えたといわれる「伝羽柴秀吉邸」を模型で復元し、十日、関係者に披露した。同城は本能寺の変(一五八二年)直後に天守閣などが焼失し、発掘調査で屋敷の全体像を解明できたのは「伝秀吉邸」だけ。邸跡から出土した礎石の配置やかわらを基に、当時の文献も参考にして模型を作った。
 模型は実物の四十分の一で、幅一・五メートル、奥行き二メートル、高さ九十二センチ。上下二段の敷地四千平方メートルに立つ九棟延べ六百五十平方メートルを再現した。下段には、大手道に面した壮大な櫓門(やぐらもん)と厩(うまや)がある。上段には、入り口にあたる高麗門、防備を固める隅櫓。奥に入ると、主殿を中心に家来の詰め所の遠侍や台所などが並ぶ。
 同城にいたころ、秀吉は信長に仕える有力武将の一人。藤村泉・同研究所所長は「けんらん豪華ではないが、質実で威風党々とした屋敷だった」と話す。
 安土城を描いた最も古い絵図「近江国蒲生郡安土古城図」(一六八七年)には、秀吉邸のほかに徳川家康邸などの名前と位置が描かれている。天守閣が炎上したとき、「伝秀吉邸」は山ろくにあって類焼を免れ、おいの豊臣秀次が三年後に八幡山城(近江八幡市)を築いた際に移築されたと考えられている。』
 もう一つは、
『長崎奉行所遺構を発掘(1997/09/13付け朝日新聞)
 長崎県教委は十二日、長崎市立山一丁目の県立美術博物館内の敷地から、長崎奉行所の庭園の池の跡や石塔が見つかった、と発表した。江戸時代に長崎における外交や国防、キリシタンの取り締まりにあたった同奉行所の遺構は近くの知事公舎の敷地内に石垣がわずかに残っているだけで、遺構の発掘は初めてという。
 発掘された池はひようたん形に近く、長さ約十四メートル、深さ約○・六メートル、幅は最大で約六メートル、最小で約三メートル、面積は約七十平方メートル。池の縁はしっくい状の粘士を張り、水が漏れるのを防いだ跡があるという。
 また、長崎奉行所の第八十四代奉行で、「遠山の金さん」の父親としても知られる遠山左衛門尉景晋(とおやまさえもんのじょうかげくに)の名前が彫り込まれた石塔も池の跡から出士した。』
 二つとも直接埋蔵金と関わりがあるニュースではないが、埋蔵金の背景としての“事実”にも日頃から注意を持っていると思わぬところで約に立つもの。特に安土城の遺構に関してはあまり言い伝えのない信長の財宝に関する資料として記録しておきたい。成金趣味と言われる秀吉とはあまりに対照的な信長だが、安土城に注ぎ込んだ労力と財宝はやはり計り知れないものだったことがうかがえる。

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